まきばのこひつじの意味するもの

 考える羊。

『羊の群れには、猿のように決まったリーダーやボスがいない。上下関係もない。そのため、群れの中の1頭が危険を感じたり、反応すると、他の羊もみんな追従する。たとえば1頭が走り出すと、全頭が一斉にあとに続いて走る。1頭だけになるとパニック状態になる。
こうした習性は、
羊の群れが狼などの敵から身を守る大切な習性だが、群れの最後尾にいる羊は、自分がなぜ走っているのかさっぱり分からない、と言われている。』


「羊はどうして同じ方向を向くのか」ほか から引用




羊には群れようとする習性があることから、私たちは集団の中の囲われた羊の群れ、または家畜化された羊そのもののように感じることがある。
群れとともに進んで行き、崖があるのもわからず落ちていく、そのような群れたがる羊たちは群衆心理に弱い動物だ。また、羊は非常に繊細で、不安や恐れがあると眠れない。ハエや害虫がいると悩まされて落ち着かないという。空腹や水が不足していると眠れないとも言われている。それはまるで私たちのようであり私たちそのものであるとも言えないか。 
しかし、そんな繊細で群れて暮らす羊にも、考える力が備わっているのではないか、と私たちは考える。

参考ブログ 羊の意味するもの





「囲い」について


ボードリヤールは「囲い」を「隠れ場所としての日常性」と捉える。
平穏無事な、見えない囲いの中で生きている私たち。
消費社会は、脅かされ包囲された豊かなエルサレムたらんと欲している、と彼はいう。これが消費社会のイデオロギーである、と。

私たちは、まきばという囲われた中にいる羊のようなものだ。現システムの中で保護された安全な「囲い」の中で生きている。外的世界での受難や宿命が記号化した保護地帯で、月並みな生活に希望を見出すしかないという社会に生きている。消費社会とは、こういうことなのだ。
その中で、道にそれた羊がいたっていい。羊だって夢をみるのだ。





 


『労働、余暇、家族、親族のすべてを、個人は、私生活という囲い、個人の形式的自由、環境への安全な適応と否認の上に成り立つ首尾一貫したシステムの中で、世界と歴史の手前へと退行的なやり方で再構成する。全体性という客観的な視点から見れば、日常性は貧しい残りかすにすぎないが、それは全面的自立と「内輪向けの」世界の再解釈の努力という視点からみれば、意気揚々として幸福感にあふれている。この点にこそ、私生活の日常的領域と、マスコミニケーションとの深い有機的結びつきが見いだされるのである。
 「囲い」つまり、隠れ場所としての日常性は、まがいものの世界や世界に関わっているというアリバイなしには、耐え難いものとなるだろう。だから日常性は、この超越性の増殖するイメージと記号とを絶えず栄養分としなければならない。すでにみたように、平穏無事な日常生活は、現実と歴史が眩暈(めまい)で隠されることを必要としているし、気分を高めるために、消費された恒常的な暴力を必要としている。これが日常性のいやらしさであり、ほどよい室温になったワインのように供されるなら、出来事や暴力が大好きなのだ。 戯画的にいうなら、それはベトナム戦争の映像を前にしてくつろぐテレビ視聴者の姿である。テレビの画面は外から見た窓のように、まず部屋に面していて、部屋の中では、外の世界の残酷さが倒錯的熱っぽさを伴った親密なものとなっている。』(p32・33)
 
                           消費社会の神話と構造 ジャン・ボードリヤール









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