2017年3月18日土曜日

加藤周一さんの本から



こひつじ1号です。

やっと読み終えた加藤周一さんの著書、「日本文化における時間と空間」の中に、わたしがずっと持っていた疑問の答えが書いてあったような気がして、ここにメモしておきたいと思います。
加藤さんの過去の著書を調べていたら、奇しくも、 「羊の歌」というエッセーがあり、このブログのテーマともつながっている事を知りました。
ご本人が未年(ひつじ年)ということで付けたタイトルだそうですが、群れる羊からひとり抜け出した孤高の羊を感じさせます。

さて日本における時間の話ですが、加藤さんの本の中には、日本人が「今」という時間を常に生きているのだということが書かれています。
わたしたちにとって、時間の流れというのは捉えがたく、捉えるのは「今」だけですから、それぞれの「今」が時間軸における現実の中心となります。日本においては、それが顕著に現れています。
江戸時代にはわさびが流行し、一瞬で終わる刺激に人気があったと言われています。歌舞伎の「みえ」や、能のもつ「間」なども、瞬間の感覚的経験への集中していく傾向を表しています。
他方で、「今」とは瞬間だけではなく、近い過去と未来を含み、変化の起こらぬひと時代を「今」ということができます。日本は、遠い過去から変わらぬ形式の「神道」があり、それはそのまま現在の世界に組見込まれています。
そこでは、個人の人生の有限性は、所属集団の持続性に吸収され、集団の持続性は過去を現在化するとともに、未来をも現在化しています。

かつて、フランスの新聞「Le Monde」の記者であったRobert Grillainが、彼の著書の中で、日本をインスタント主義、振り子のように動く民族、と書いているそうです。
これは、日本が小国であり、現在の環境に注意を集中し、大勢の変化に鋭く反応することを求められる立場だったということが大きかったと言えるでしょう。
しかし、日本のインスタント主義、そして大勢順応主義とは、現在の大勢に従うことが良い事であり、悪しき物は過去に追いやり、現在と関係ない物には責任をとらないという国民性を浮き彫りにしています。
 明治政府の指導者たちが、「尊王攘夷」を旗印に行った倒幕後、すぐに「開国」し「欧化」政策をとったのも、権力掌握前後で状況が変わったからです。
つまり「攘夷」は彼らにとって内面化された原理ではありませんでした。外面的なイデオロギーは道具として使われました。しかし、それは自覚されていたとは限りません。
彼らは、ある状況下では「攘夷」を信じていたのであり、次には「文明開化」を信じることになったのです。これは、変化の状況への適応を束縛しない形でイデオロギーと係わっているためで、行動に原則の一貫性はありません。
すなわち、現在に生き、過去は無視して現在にのみ係わり、未来は現在の延長と考えていたことを表しています。
思想、イデオロギーを道具として使う傾向は、現在中心主義のひとつの表現と解釈することができます。明治政府の中にも、天皇の神性を主張するものも少なくなかったのですが、最終的には、統一の中心をつくるために強化された天皇制だったことは明らかでしょう。

空間に関しての話になりますと、日本の家屋には奥があり、外に対して閉じているということから始まります。移住空間が閉じれば表現の空間も閉じることになります。
そこには、かならず閉塞感というのものがあります。
江戸時代の鎖国の時期には、中の環境を変える事は難しいので、自分が変わる他はないという現実がありました。そこで、中国から来た禅は、内的変化を促すためのトレーニングとして日本で実用化されました。心の外で起こる事は、全て決められた時空間の中で起こりますが、心の内側で起こる想念は、時空間の束縛を受けません。
宗教的な神を介せず、それを実践するのが「禅の悟り」です。日本における禅は「今即永遠」「ここ即世界」の普遍的な工夫をするために必要なものでした。
外界で起こる事は制御不能であり、個人の内界(心、意識、感情と精神) とは関係なく起こります。外界の変化にどう反応するかは、自らの心の決定に寄る事が大きくなります。
日本の場合、外界と内界の直接に係わる所、身体的感覚的領域、すなわち身体が直接触る部分、外界細部の表現の徹底的な洗練に向かったと思われます。
日本人の、自己の内にある感情や意志の表現へ向かう傾向「主観主義」こそは、日本文化が含む根本的な原理のひとつであり、芸術家の視線を外でなく内に向かわせる傾向は、徳川時代から21世紀に流れのなかに、しっかりと残っています。


これは、わたしが気になる部分を書き出して要約したものです。不備な部分があったらご指摘ください。
この本を、今の日本の状況を考えながら読んでみて、納得することがたくさんありました。日本人の、細部へのこだわりは内部への求心性から来ていることは明らかです。
また誰も責任を取らない体質や、議論する前に感情的になってしまう傾向も。
日本では、今まで亡命した知識人はほとんどいないそうです。これは、閉塞感からの脱出の方向が、内側に向かっていることが理由かもしれません。日本人は、外にユートピアを夢見るということがほとんどないのです。それについても、もう少し深く考えてみたいと思います。
現実的にはのんびりもしていられないのですが、日本人が自分自身を知る事で見えてくるものもあるような気がします。
間違えた過去を現在に引っ張り込まないように、私たちは考え、行動する必要があるのかもしれません。




加藤 周一(かとう しゅういち、1919年(大正8年)9月19日 - 2008年(平成20年)12月5日)は日本の評論家。医学博士。 鶴見俊輔、作家の大江健三郎らと結成した「九条の会」の呼びかけ人。 1943年東京大学医学部卒。世界的な視野から日本の文学・思想・美術の歴史を論じ、世界中の大学で教鞭を揮った。文学芸術から国際情勢まで鋭敏にして繊細な言論活動を展開。2008年12月5日逝去。

「日本文化における時間と空間」2007年 岩波書店